もうひとつの宝物

次女、長男、次男のお話をしたので、もうひとつの宝物、長女と2人の孫たちのことも。

長女が生まれたのは、沖縄県八重山諸島の竹富という小さな島に住んでいたとき。
旅の果てに見つけた美しい島で出会ったわたしたちは、そのままここで一緒になった。
診療所ひとつ無い島では隣の石垣島で産むのが当然で、妊婦さんは予定日よりだいぶ早くに石垣へ渡りそのときを待つ。
のんびり構えていたわたしは夜中に破水し、慌てて島の漁師さんに小さなボートを出してもらい、満点の星空の下、羊水でびしょ濡れのパジャマのまま海を渡った。

小さな産院で娘が産まれた後のあの気持ちは、生涯忘れない。
全世界が、宇宙中が祝ってくれているかのような愛に包まれた。
すべてが完璧で満ちていて、ただただ愛の祝福の中にいた。

けれどその後、今で言うマタニティブルー(当時はまだそういう言葉も認識も無かった)がやってくる。
あのころのわたしはまだまだ若く、中身は幼く、子どもを育てるという重大な任務に耐えきれなかった。
生まれ育った場所から遠く離れた小さな島で、頼りになる家族や友人も無く、情報も無く(インターネットの無い時代)、泣き続ける娘を抱いて途方に暮れていた。
そんな未熟な母だった。

それでも決めたのは、この子を母乳で、それから安心安全な手作りのものを食べさせ育てたい。
その想いがつながり育って、おちちやへと続いていく。
すべては娘から始まった。

頼りない母の分まで覚悟して生まれてきたのか、娘は小さなころからとても意志の強いしっかりした子で子どもっぽいところが無かった。
後に数秘で知ることになるのだけれど、子どもの数字を持つわたしと、大人の数を持つ娘。
誰から生まれたのだろうというくらいに頭の回転が早く、物事を見極めることのできる子だった。
小学生になると、あらゆる点で先生から褒められたし、逆にわたしはいつも娘に叱られていた。

普通に見れば優等生。
なのに娘は自分で選び、途中で中学校に行かなくなった。
気に入った授業があるときだけ行くという自由なスタイルで卒業し、高校へは行かずに、働いて作った貯金でわずか16才で家を出た。
大好きなサッカーチームのある街に、ルームメイトを見つけて暮らし始めた。

そして結婚、出産し、今は千葉市に家族4人で住む。
2人の子どもたちをそれぞれの園まで自転車で送り届けてから自分も出勤、忙しい毎日。
4才のなつと2才のかいは天真爛漫に元気に育ち、可愛いことこの上ない。
娘のしあわせになる力に、わたしは会う度に感動させられる。

娘にとって石垣島、竹富島は特別な想いのある場所らしい。
先日、ウエディング以来6年ぶりに旅行へ。
お天気にも恵まれ、満喫して来たとのこと。
みんなの笑顔いっぱいの写真がたくさん届き、娘はどんなにか満たされた時間を過ごしただろう。
お土産のパイナップルやシークワーサージュースはわたしたちには懐かしの味。

いつまでもどこまでもこの満ちた時間が続いていきますように。

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